2018/12/06 21:45

お立ち寄りいただきありがとうございます。
ししょーです。
今回は、『教育論と子育て論について』の記事を書きます。

わたしは、教育大学で障害児教育を学び、卒業後も小学校の先生と聾学科の先生を経験しました。

自分のやりたかった先生像と学校現場はあまりにかけ離れていたので、教員でいることをあきらめ、その後発達障害児中心の学習塾を経営したり、家庭教師をしたり、『教えること』の現場に立ってきました。

教育と子育ては同じではないですが、わたしは先生としての姿とほぼ同じ姿で、子どもと接していることに気がつきました。

熱い思いの中のほんの一部ですが、
子どもの効果的な育て方をお伝えします。
先生や塾講師、コンサルタントになる人はこの欲求が強い人だと思います。

わたしの場合は、教えたい欲求は特に強いです。
教えることが、まるで自分を肯定するかのような気持ちになり、欲求が強く満たされるのを感じます。

先生になる人は、

自分の成功を教えたいか、自分の失敗を教えたいか。

どちらかです。

自分の体験から学んだことを教えなければ、何の値打ちもありませんから。
それで良いと思います。

子どもの時に関わる大人というのは親であれ先生であれ、特別な存在です。

わたしが教育論で1番大切にしている部分は、押し付けはNG』ということです。

  • 親が引いたレールを歩まされる子は、成長しません。
  • 先生の言ったことを疑問を持たずにただ従う子は、成長しません。
  • 大人は未熟だ、自分だったらこうすると思えない子は、成長しません。

教えたいが先走って、個性や思考を奪えば、それは教育ではなく、ただの洗脳です。

成功にしても失敗にしても、
自分の歩んできた道が正解であったかどうかを子どもに問うのではなく、
自分で答えを出した上で、
余裕と聞く力をもって、
子どもと関わってほしいと強く思います。


②大人にできること



大人にしかできないことが1つだけあります。

環境を変えてやること。

子どもは子どもなりに、社会があって、その社会の中で自分なりに精一杯生きています。
もちろんそれは大切にしてやらないといけませんし、大人の勝手でバランスを壊してはいけません。

しかし、

子どもだけでは解決できないような問題が発生した場合は、大人の出番です。

『いじめ』、『不登校』、『進路』、『アルバイト』等は話を聞いて意見する権限を持ちます。
子どもの自己肯定感を下げることは1番良くないので、外的要因によって問題が起こってしまったら、すぐに学校は休ませるべきです。


それ以外の場合は、民主主義に乗っ取ってできるだけ自分たちで解決させると良いですね。
たいていのことは、自分で何とかできます。自分でできなければ周りの友達に力を借りられます。

『過保護』や『過干渉』も成長の妨げになります。


近年は、学校の先生や、親戚や、近所のおじさんが子どもを叱ってくれなくなりましたよね。

叱るのは、親の責任です。

『怒る』と『叱る』は違います。


怒ることは、自分の感情が優先されてしまっているのに対して、叱ることは指導的な意味を持ちます。

叱る時は子どもの成長にとって、効果的な叱り方を考えて言葉を発しないといけません。


背景や子どもの思いを知らないのに、ルールに乗っ取ってとりあえず怒る大人は、全般最悪です。
向き合う気持ちがないので子どもからは全く信頼されません。


瞬殺で怒っていいのは、現場を見たときだけです。



また、環境を変えるとは、防御のためだけに使うわけではありません。

子どもを伸ばすために、周りの環境を自発的に行動できるように整えてあげることができます。


『やるべきことのやらせ方』を例にとってみましょう。
  • 早く宿題をしなさい!
  • 明日の時間割まだしてないの!?
  • テレビ見てないでご飯食べなさい!

0点です。

環境設定が下手です。


『宿題をして、明日の用意をすれば夕食が食べられる。』というルールがあれば、習慣的にやるようになります。
『食事中が終わったら、見たいテレビが見れる。』というルールを作れば、早く食べ終わるようになります。


子どもが前向きにやりたくなる環境を作るのです。
罰則を作るルールよりも、楽しみを後に持ってくるルールの方が良いですね。

全ては言い方です。

主体性は、罰則の中からは生まれません。




③ライバルであり、友であり、目標であれ



学校の先生が頼れず、子どもを本気で叱る力を持たなくなったので、親の関わりが重要となります。
赤ちゃん期から特に小学校3.4年生くらいまでは、親の役割は多いです。

今回は代表的な3つを挙げてみました。


1つ目は、ライバルであることです。

兄弟姉妹がいる場合はこの役割は減りますが、一人目の子どもの場合は親がこの役を担います。

遊びにしても生活にしても、子どもの価値基準を大きく占めるのは『勝ち負け』です。

勝ったらやる気が出るし、負けたらやる気は出ません。

親が勝ち負けの場に飛び込んで関わってあげることで、
勝つ喜びと負ける悔しさを教え、練習してできるようになったら勝てるようになることを教えていきます。

勝ってばかりや負けてばかりもちょっと違いますよね。

ライバルがちょうどいいです。子どもの遊びでお互いに切磋琢磨していく姿勢をしっかりと見せることです。


2つ目は、友であることです。

子どもの社会性を養うのに大切なのは、
『共感力』です。

家庭が子どもにとって初めての社会になるので、必然的に親が初めての友達です。

自分の考えや気持ちを話せる大人になるには、どれだけ幼少期にコミュニケーションを取ったかが、鍵となります。

子どもが小さい時に全く関わらなかったお父さんが、思春期の時にしゃしゃり出てきてもうっとおしいだけですよね。
何でもない時間の会話や肌の密着が子どもに安心感を与え、共感する力を伸ばしていきます。

友達のようなお母さんが近年増えてきています。とても良いことだと思います。

社会でのつながりがどんどん希薄になっていけば、家族や兄弟の関係性の強さが非常に大切になっていきます。

大人と言えど一人の人間であり、まだまだ未熟です。未熟な部分は一緒に成長していけばいいんです。


何か1つでも子どもと共通の話題や趣味を持ち、友達のように共感し合える時間を大事にしていきましょう。

3つ目は、目標であることです。

子どもは単純です。
餌を前に出し、どんどんリードしていけば、どこまでも成長します。

成長に必要なのは、目標です。

お母さんもお父さんも頑張ってさえいれば、子どもに目標にしてもらえます。


しかし、

仕事場でだけ頑張っていてはダメです。

子どもが見ているところで、夢や目標を持って頑張っている姿を見せるんです。

目標を持つ、というのは実はとても難しいことです。
大人になると仕事中心の生活で、お金を稼ぐために生きているような感覚に陥ります。

それではいけません。

なりたい自分が目標です。

子どもが自分みたいになりたいと思ってくれるかどうか、という視点を持って生きていきましょう。

大人の前向きで
一生懸命な姿を見て
子どもは目標の決め方を
学んでいくのです。

大人が率先して何かを一生懸命やり続け、何かを目指す。

子どもに身に付けさせたいことを考えるより前に、自分自身が目標に向かっているかどうかを見つめ直す必要があると思います。




④悪魔の如く怒り、天使の如く笑いかける



これはわたしが編み出した必殺技です。笑

怖い存在がないと、世の中をなめてしまって、ゆとり人間になるかもしれません。

最近は女性も稼げる世の中になってきたので、お父さんが怖くなければ、存在意義すら怪しいものです。


お父さんでもお母さんでもどちらでも良いのですが、圧倒的な恐怖を経験させておくと、フワフワしにくく育つでしょう。

恐怖の記憶への刷り込みは、『ヤバい、怒られる』というブレーキを脳にかけることができます。


よく『飴と鞭』と言われますが、全くその通りです。

飴ばっかりでは飽きます。値打ちがなくなってサボり出します。鞭ばっかりではしんどいです。自己肯定感が下がり嫌になります。


これは子どもだけでなく、大人にも言えることだと思います。

飴と鞭を、バランスよく使うと効果的なのですが、さすがにうまくはいきません。

悪魔の怒り と 天使の笑顔

を時々見せておけばいいです。

ダメなことをしたら圧倒的に大きな声で怒鳴り付ける。
いいことをしたら圧倒的に優しい顔で笑いかける。

これで子どもの人間の幅も膨らみます。

怒りは成長のために必要な感情です。大人が子どもに怒ってもいいのです。
その代わり、ここぞの一撃だけにしてください。

怒りを多様すると、ただのキレやすい人です。笑
そしてそれすらも、子どもは慣れたらなめてきます。笑

目を見開いて、覇気と大声を飛ばし、泣かせる。

これが正しい『怒り』の使い方です。

わたしは笑顔こそ頑張っています。
怒りのスキルはもともと高いので。笑






⑤まとめ



わたしの教育論と子育ての方針をざっくりとお話させていただきました。
長男が生まれた時は、お父さんが何なのかもわからず、今思うと未熟だったなと感じます。

子育てに正解はありません。


のびのびと育ってくれたらそれでいいというのが、親の願いです。

昔とは違い、核家族で閉鎖的な家庭環境で、クレームに怯えた頼りない教師との学校生活を送る、現代の子どもが不憫に感じます。

いつの時代も大人は基準 

です。

ブレない芯を持って、子どもと関わる大人が増えることを願います。